slow pace~ゆるやかな歩みと日常の思い

やわらかであれ。穏やかであれ。そう願い続けて生きてきた、私の呟き。

年齢とは、ただの記号のようなもの

私は50代になりました。
半世紀生きてきたことになる。

50歳と聞くと、昔はすごくお年寄りだと思っていた小学生だった頃。
いざ自分がその年になってみると、ピンとこない。

子供はまだ小学生です。
ちなみに
私は高齢出産でした。


先日、自身の年齢に触れる機会がありました。

その1。PTA役員仕事をやっているお仲間。
その2。子供が通う公文の先生。

私はどちらにも正直に自身の年齢を話します。

まあ、気を遣ってくださって「全然見えない」「若く見える」等の言葉をくださる。
そんなわけない。
年相応ですよ、と、お返しします。
だって、鏡に映る私の顔は、ぐったりやつれ切った中年のそれです。

でも、恥じることもないし、隠すことでもない。
その顔は、今までの私自身の生きざまが出ている。
踏ん張って、自分の努力でここまで生きてきた。

自分がやってきたことに自分なりに積み重ねてきた経験値と自信があるから。
年齢など、自慢にはなりはしない。
大事なのは「その長年の間、自分がどう生きてきたのかという結果」かなと。


たまにいる、年齢をサバ読むっていうのは意味わからない。
自分に自信があるなら、正直に年くらい言えばいいのにねと。

多分、自分には何もないから若さに執着するしかないのだな、と近年その「サバ読む」心理がやっとわかりました。

それは身近な人間。私の実姉のことです。
昔から年齢をサバ読み続けていました。
私は「なんで正直に本当の年齢を言わないのかな」と、ずっと不思議に思ってて。

「若く見える」という周囲からの褒め言葉の呪縛から逃れられず、執着し、その若さを維持しなければならない。
こだわり。でも、年をとることからは逃れられない。
誰でも年を取るもの。

でもそれを手放せないことも知っています。
だって、それが彼女の唯一の自信。
それはとても脆く、現実を受け入れられない枷みたいなもの。
「若く見える」だけで実際に若いわけではない。
手放してしまったら、何も残らない。

そういう彼女はもう還暦目前。

現実から目を背け、逃げ続ける努力は、年々しんどくないでしょうか。
こだわりと執着捨てたら、きっと人生はラクになれそうです。


とはいうものの、私も身なりを整えることには気を遣ってます。
高齢になればなるほど「清潔感」を保つことは大事だなと思ってます。

肌の張りも、髪のツヤもなくなり、なんとなく清潔感がない印象。
若い人の倍以上の手入れをしなきゃカサついていきます。

実は、私自身は若さには執着はしてませんが、子供が可哀想かなと思って。

小学校のお友達から「この人、おばあちゃん?」って言われたら可哀想かなという思いから、普段から清潔感を意識しています。
行事等で頻繁に学校に行きますのでね。常に。
(子供は「お母さんはおばあちゃんじゃないよ!可愛いよ」と、言ってくれますが)

身づくろいは、幼い子供のためです。


年を重ねて、ありのままであることと
手入れもせずにボサボサ無頓着であることは全然違う。
サバ読むことと清潔感を保つ努力も、似ているようでなんか違う。

それから
最近、昔流行った女優さんとかが「若く見える!」「可愛い!」とかいう見出しとともに極端な持ち上げられ方をされてることが多い気がします。

これもまた60歳を目前にして若作りな格好をするのは、多分、過去の若かった全盛期の頃が忘れられないからなのかな。
うちの姉と一緒だなぁ。
ちやほやされていた20代の良き時代を懐かしみしがみつくより、現実を受け入れて、この先をどう楽しむか、実行するかを考える方がいいと思うんだけど。

自信に繋がるのではないかと思っています。
年齢というただの記号のようなものに小さなものにピリピリこだわるより、自信をつけて人間的に深みがある人の方が、実際は若く見えてたりします。
芸能人でも、身近な先輩方でも。